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信州で古い友人に会う

  • N. Hiro
  • 11月14日
  • 読了時間: 3分

私が大学に入学したのは2000年4月なので、25年前になる。


当時、和歌山の田舎から出て一人暮らしを始め、なれない都会での生活はストレスフルであった。掃除、洗濯、食事の準備、すべて一人でいきなりきちんとできるわけもなく、大学に行くのも億劫な日々が続いた。

過ぎてしまえば、なんということはない日常ではあるが、一人ではなかなかつらい人生を歩んでいたと、一人悲観していた。


まぁ、そんな私にも何人かの友人はできて、なんだかんだ生き延びて、今に至るわけであるが、その頃はこんな人生を歩んで、まさか、大学教員になるとは思っていなかった。田舎に帰って公務員にでもなると勝手に決めていた気がする。実際、田舎に帰って公務員になったが、辞めて博士を目指すことになるわけだが、それはまた別の話。


さてさて、信州の友人はそんなつらい大学低学年を一緒に過ごした仲間であり、なんだかんだ、細く長く年賀状程度のやり取りではあったが、つながっていた。学会に参加する直前まで、忙しく、余裕がなかったので彼のこともあまり意識せず、長野駅に向かった。


長野駅のホテルでふと、その古い友人のことを思い出し、メールしてみた。忙しければ会えないだろうとは思っていたが、思いがけず都合がつき、お昼ご飯を一緒に食べた。

不思議なことに、会って話してみると何となく大学生のころを思い出して、懐かしくなる。雑に出していた実験レポートも、直前の過去問の付け焼刃もすべて懐かしい。


大学教員で今の立場で見てみれば、ずいぶん不真面目な学生だった気がする。


それでも研究者にはなりたくて、好きな科目だけは一生懸命勉強した気がするが、興味のない科目の点数は芳しくなかった。最も興味の薄かった物理化学ではあるが、いま、一番関係している科目であるというのも皮肉である。当時は、アトキンス物理化学を教科書として使っていたが、私には合っていなかった。バーローやマッカーリサイモンの物理化学のほうがあっている。


いやあの頃の私は、やっぱり物理化学より有機化学のほうが好きだった。有機>無機>分析>物理化学だった。


何でこんなことに?と思うが、その友人の彼もいまでは学校の先生である。当時は、そんな進路を取るとは思っていなかったが、言われてみれば、とてもやさしく繊細な彼らしい職業だとおもう。友人というのは大切にしたほうがいい。


お察しの通り、私の出身は理学部化学であって、工学部でもなければ、電気電子でもない。学部時代に電気回路も、電子回路も半導体デバイスも習ったことはないが、私の専門は電気電子材料、ナノテクノロジーであって、今や化学のかけらもない。恐ろしいことではあるが、今の私であれば、化学に言って教えられるのは物理化学くらいである。


学生時代に勉強はもちろん大事であるし、一生懸命、学ぶのも重要であるが、大学でどのような友人と出会い、影響しあうか、これはとても大事である。なんだかんだ、25年たってみると教育関係にかかわっている人が結構いるのも意外なことである。

 
 
 

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